あなたの「常識」を疑うと「才能」にたどり着く

自分発掘コンサル
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「師走」と「紫陽花」と「東海林」

師走です。

と書いてみて、でもなんで「師走」が「しわす」と読めるのか、自分でもよくわからなくなっています。それは「紫陽花」を「あじさい」、「胡桃」を「くるみ」と読めることにも近いかもしれません。

あるいは「東海林」さんが「しょうじ」さんだとすぐわかり、「五十嵐」さんが「いがらし」さんだと判別がつくのも同じようなことなのですが。

よくよく考えると「渡辺」さんが「わたなべ」なのも不思議じゃないですか。「渡」とくっつかない限り「辺」を「なべ」と読む機会はほぼないし。「清水」さんもそうですね。これで「きよみず」さんならまだしも「しみず」さんになるのは、よくよく考えると不思議です。

まあ、そんなことはどうでもいいんですが。

「思い込み」がぼくたちを支配している

とにかく、私たちは一旦「そういうもの」と捉えてしまうと、そこから離れることが難しい、という特性があるように感じます。

「東海林」さんから名刺をもらったら「ああ、『しょうじ』さんだな」と思うし、「河野」という名札を見れば「この人は『こうの』さんというのか」と思う。

でも、ひょっとしたら、名刺をくれたその方は「とうかいりん」さんかもしれないし、名札を付けているその人は「かわの」さんかもしれないわけです。

似たような別の話ですが、昔、ぼくが働いていた会社の社長の名字が「清永」さんでした。

で、よく会社に売り込みの電話がかかってきて「しみず社長はいらっしゃいますか」と聞かれることがありました。その時、ぼくは決まって「そういう者は当社にはおりません」と言い放ち、電話を切っていました。

思い込みとは恐ろしいもので電話をかけてきた側は「清」と「水」が組み合わさって「しみず」さんだとばかり思っていたのでしょう。まさか「清」と「永」がくっついて「きよなが」だとは思わないと。当時の私は、営業の電話をかけるなら確認すれば良いのにと思いつつ、そっと受話器を置いていました。清永社長、お元気でしょうか。

「ダンディなおじさま」か「のび太くん」か

何の話でしたっけ。そうそう。思い込みの話です。

私たちはいつの間にか「常識」とか「当たり前」を身に付けていきます。そう、いつの間にか「東海林」を「しょうじ」と読み、「五十嵐」は「いがらし」と読む、といった具合にです。

人によっては「これで『いがらし』って読むんだ!」と学んだ瞬間を覚えている方もいるかもしれませんが、多くの方はいつの間にか「五十嵐=いがらし」が頭にインプットされていたのではないかと思います。自分の名字が「五十嵐」さんの方は当然のごとく。

実はそれと同じように、私たちはいつの間にか「自分とはこういう人間である」とか「自分はこういう特徴を持っている」と認識してしまう傾向にあります。それは決して「良い・悪い」の話ではありません。「そういうものだ」というお話です。

多かれ少なかれ、人は自分がどういう人間かを自分なりに把握しながら生きています。ただ、その「自分が思い描いている自分像」は、時として他人から見ると必ずしも事実に近いとは言い切れない、というケースがあります。

ぼくなんかは、自分では「無口でクールでダンディなおじさま」と自覚しているのですが、周りから見ると「のび太くん」の方が近いという評価らしいのです。不本意。

「才能がない」人は一人もいない

人間、多くの場合は自分を「見たいように」しか見られません。自分に対する評価がどれだけ低く、「自分には何の取り柄もない」と思っている人も、実は「そう見たいから、そう見ている」のです。

「いや、そんなことはない。自分は自分の才能や特技を見出したいのに、何も見つからない」と思っているあなた。それはおそらく「自分が持っていたい、ほしい才能・特技が一個もない」ということだと思います。

ぼくの場合、子どもの頃から「何の取り柄もない」「何の才能も特技もない」と思って過ごしてきました。

例を挙げればキリがないのですが、野球をすればボールではなくバットが三遊間に飛んでいき、守備ではフライを顔面でキャッチ。サッカーではドリブルをしているうちにボールだけが先に行ってしまって自分が追いつけなくなる。

歌を歌えば隣の家から「ニワトリがうるさい」と通報され、女子の似顔絵を書いたら「私の顔はオーストラリアではない」と号泣される。せめて面白い人になりたいと一生懸命しゃべっていたら「うるさいし、つまらない」と一刀両断される始末。

まーともかく「才能」や「特技」といったものとは無縁で生きてきたわけです。

ですが、見つけました。私の才能。人の話を聞いたり、文章を書くことについては本当に苦にならないし、楽しくできる。そして、人から喜んでいただけることもたくさんあります。

それが自分の才能だと気付くことが難しいのは「あまりにも当たり前にできてしまうから」なのです。

欠点は本当に「欠点」なのか

ぼくの場合、人の話を聞くことも文章を書くことも「楽しみ」や「喜び」に繋がっています。

もちろん、三日間飲まず食わずで人の話を聞き続けろと言われたら、やれる自信はありません。ですが、それは多分、ぼくのもう一つの才能「食い意地」が発動するからです。何はともあれ、三度のメシだけは絶対です!(キリッ)

でも、多くの方は「え?みんなそうじゃないの」と思いがちだったりする。運良く自分の才能が子どもの頃や若い頃に誰かから見出されたり、自分で発見できた人は良いのです。

自分の才能や特性に気付かないまま大人になり、大人の階段を登り、君は今シンデレラになってしまった場合(後半は無視推奨)、「自分自身の才能・特性」に気付くことが難しいケースはけっこうあります。

場合によっては、自分の才能が「欠点」だと思ってひた隠しにしているというケースもあります。「目立ってはいけない」と子どもの頃になぜか思い込んでしまい、何をしても目立ってしまうのがイヤでイヤでしょうがない・・・という方がいるとします。

でも、それって裏を返すと「目立てる才能がある」ということじゃないですか。ぼくみたいに何をしても目立てない人間からすると、うらやましい限りです。いやほんとに。

いますよね。何をしても目立ってしまう人。それは才能です

といった具合に、人は自分の才能に気付くことが難しい場合が多々あります。自分の「才能」をむしろ「欠点」とさえ捉えている場合もあるわけです。

「自分発掘コンサル」おかげさまで好評です

ぼくが提供している「自分発掘コンサル」では、あなたの半生や今までの経験、あるいは今取り組もうとしていることを伺った上で、あなたの才能や特性を客観的に(=ぼく目線で)ご説明します。そうすると、あなた自身が見ていた「自分」とは少し違う「自分」を知ることになります。

予めお伝えしておきますが、ぼくから見た「あなたの才能・特性」が、必ずしも「正解」とは限りません。ただ、今までの人生であなたが見てこなかった「才能・特性の可能性」に目を向けるきっかけにはなると思います。

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などなど、受けてくださった方々から嬉しい声をいただいております。

そう。実は「自分の頭が整理できる」というのも、この自分発掘コンサルのいいところではないかとぼくは思っています。

一人でいろいろ考えることも素晴らしいこと。ただ、誰かに「自分が考えていること」や「自分が感じていること」を話してみると、「あ、こんなこと考えてたんだ」とか「この方向でやっぱり正しいのか」と確認できたりするわけです。

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